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大阪地方裁判所 平成4年(ワ)9067号 判決

原告

甲野春子

右訴訟代理人弁護士

小山田貫爾

被告

大阪府

右代表者知事

中川和雄

右訴訟代理人弁護士

鎌倉利行

檜垣誠次

右指定代理人

田中浩喜

外五名

主文

一  原告の請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告に対し、金三四二四万六一九一円及び内金三一二四万六一九一円に対する平成二年三月二〇日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

主文同旨

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  当事者

原告は、訴外亡甲野一郎(昭和二一年一二月四日生、平成二年三月一日死亡。以下「一郎」という。)の母である。

被告は、精神科、神経科の専門病院である大阪府立中宮病院(以下「本件病院」という。)を設置し、運営管理する普通地方公共団体である。

2  本件事故の発生

(一) 一郎は、被告との間で診療契約を締結し、本件病院に入院し、入院治療を受けていたが、平成二年二月二八日午後五時二〇分ころ、同じく本件病院の入院患者である分離前相被告乙川正夫(以下「乙川」という。)から腹部を十数回踏みつけられる等の暴行を受けた。

(二) 一郎は、右暴行により、右同日午後八時ころ嘔吐し、同年三月一日午前七時ころにはショック状態に陥り、右同日午前八時過ぎに救急車で新世病院に送られ、同月一九日、同病院において膵挫傷により失血死した。

3  乙川は、非定型精神病により、昭和五六年以来、本件病院に入退院を繰り返しており、本件事故当時は三回目の入院中であった。乙川は、平成二年一月三〇日、今回の入院を開始したのであるが、それまでの経過は以下のとおりである。

(一) 平成元年六月二四日、友人の深瀬及び石井が乙川宅に泊まりに来ていたが、乙川は、深瀬の横柄な態度等に立腹し、部屋にあったカセットレコーダーで深瀬の頭を頻回にわたって叩き、さらに包丁で刺そうとして、手に包丁を持ったが、妻に止められて、これを果たせなかった。

(二) 乙川は、平成二年一月四日、石井宅に泊まったとき、石井に一晩中一方的にしゃべりまくられ、その結果、乙川自身、それ以後ずっとおかしくなったとの認識を抱き、同年一月二七日、実家へ行き、父母、兄の前で、突然テーブルの上に包丁を突き立て、「皆殺す」と叫ぶということがあった。

(三) 乙川は、同年一月二九日、隣人の三島が「殺せ、殺せ」と言っているのを聞いて、「いつかやられそうな気がして、やられるまえにやっておこう」と思い、包丁を持って三島宅に乱入し、逃げ出した三島を追いかけた。その後、乙川は、平成三年一月三〇日、警察に保護され、本件病院に入院することになった。

4(一)  右経緯にも現れているとおり、乙川には衝動的人格障害があり、ストレス又は精神的負荷が本人の許容範囲を越えたとき、心因反応として衝動的、爆発的、短絡的行為を行う危険性を有している。衝動的な行為自体は一過性のものであるが、衝動行為の出易さという意味での人格障害は恒常的なものである。衝動的行為の出易さという危険性は、常に存在するのである。

しかも、乙川には、その衝動的行為が、「なめられている」「ばかにされている」あるいは「このままだったらやられる」という被害念慮又は被害妄想を抱いた対象(友人、隣人)に対して向けられるという共通したパターンがある。すなわち、自分が馬鹿にされていると感じやすい過敏さがあり、そう感じた上で我慢できなくなったときに衝動的行為に出るのである。

乙川が、その対象に対する被害念慮を持っている限り、人格障害に基づく衝動的行為は、いつどのようなきっかけで爆発するかもしれない危険性がある。そして、乙川が、被害念慮ないし被害妄想を持った対象に対して、衝動的行為に及ぶときには、必ずきっかけがある。注意しなければならないのは、乙川の交友関係、対人関係である。

(二)  本件病院は、長期にわたる入通院期間を通じて、乙川の前記病状を熟知していた。そして、乙川の衝動的人格障害からすれば、他の入院患者との間のトラブルの発生は予見可能であった。現に乙川に関する診療記録等において、今回入院中の乙川の交友関係には問題があり、また、入院後本件事故の発生までの間、一郎のいる病室を毎日のように訪ね、同じく入院患者である星原、伊勢とともにカセットテープを聴き、その度に一郎から「出ていけ」と言われていたという事実があった。

5  被告の義務違反

(一) 右3及び4の事実からすれば、本件病院には、乙川を閉鎖病棟に入院させるべき義務があった。

(二) 仮に乙川を準開放病棟に入れるのであれば、本件病院においては、乙川が他の患者に危害を加えることのないよう、十分な監視並びに看護をなし、乙川の病状、日常の言動、他の入院患者との人間関係に常時注意を払い、同人が衝動的行動に出る危険を予知して未然に防止すべき義務があった。

(三) しかるに、本件病院は、右各義務を怠り、乙川を準開放病棟に入れた上、前記監視並びに看護を尽くさなかった過失により、乙川による本件事故を防止できず、一郎を死亡させた。

(四) 被告は、本件病院の設置管理者として、本件病院の過失に基づく診療契約上の債務不履行又は不法行為の責任を負う。

6  損害

(一) 慰謝料 三〇〇〇万円

(うち、一郎の慰謝料二〇〇〇万円、原告固有の慰謝料一〇〇〇万円)

(二) 一郎の逸失利益 一〇二四万六一九一円

一郎は、平成二年度において、障害年金八五万一六〇〇円及び加給金一九万六四〇〇円を受給できることになっていた。一郎は当時四三歳であり、平均余命34.23歳に対応する新ホフマン係数は19.5538であって、生活費控除を五割とすると、得べかりし年金の現価は一〇二四万六一九一円になる。

(三) 葬儀費用 一〇〇万円

(四) 弁護士費用 三〇〇万円

7  一郎には、死亡時において、配偶者及び子はなく、父も既に亡くなっていたので、原告のみが一郎の地位を相続し、同人の権利義務を承継した。

8  よって、原告は、被告に対し、主位的に診療契約上の債務不履行による損害賠償請求権に基づき、予備的に不法行為による損害賠償請求権に基づき、6の損害額の内金三四二四万六一九一円及びその内金三一二四万六一九一円に対する、一郎の死亡した日の翌日である平成二年三月二〇日から支払済まで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1の事実は認める。

2  請求原因2のうち、(一)の事実及び(二)の事実のうち一郎が右同日午後八時ころ嘔吐し、同年三月一日午前七時ころにショック状態に陥り、右同日午前八時過ぎに救急車で新世病院に送られ、同月一九日、同病院において死亡した事実は認めるが、一郎の死亡原因は知らない。

乙川の前記暴行と一郎の死亡との間に因果関係があることは争う。乙川による暴行を受けた後も、一郎は、新世病院における警察の臨床尋問に対して応答しており、同病院に転送された直後においても、主治医の所見によれば、内臓出血(腸間膜破裂の疑い)により一〇日間の経過入院が必要だが、現在のところ意識もはっきりしており、生命に異状なしと診断されていた。したがって、同病院に転送された直後においては、意識もはっきりしており、生命には危険のない状態であった。

3  請求原因3のうち、乙川が、非定型精神病により、昭和五六年以来、本件病院に入退院を繰り返しており、本件事故当時は三回目の入院中であった事実は認めるが、その余は否認する。

4  請求原因4は否認する。同5、6は争う。

5  請求原因7は知らない。

三  被告の主張

1  乙川を準開放病棟に入院させたことについて

本件病院は、平成二年一月三〇日、準開放病棟である二―一病棟に乙川を入院させた。

(一) 本件病院は、精神保健法の理念に従い、入院患者をなるべく社会内と同じ環境において治療し、病棟の開放化、作業療法等を用いて、患者の社会復帰をより早く実現することを目指している。

従前、精神障害者が閉鎖病棟という鉄格子に閉じ込められ、著しく人権を侵害されてきた反省に立ち、近年病棟から外へ自由に出入りできる開放的処遇(開放病棟化)が進められている。開放的処遇は、精神障害の治療面で効果があるだけでなく、精神障害者の社会復帰を促進する面からも、また人権擁護の面からも好ましいものであることが、精神科医療及び精神保健行政において常識となっている。

精神障害者の治療において開放処遇が原則であっても、その患者の病状からみて、自傷他害の危険が切迫し、隔離以外に適切な方法のないときは、保護室の利用も考えなければならないことは言うまでもない。しかし、患者の自由の制限という基本的人権にかかわることであるから、その採用にあたっては厳しい制限が課せられている。「精神保健法第三七条第一項の規定に基づく厚生大臣が定める処遇の基準」(昭和六三年四月六日厚生省告示第一三〇号)によれば、保護室への隔離は、「患者の症状からみて、本人又は周囲の者に危険の及ぶ可能性が著しく高く、隔離以外の方法ではその危険を回避することが著しく困難であると判断される場合に、その危険を最小限に減らし、患者本人の医療又は保護を図ることを目的として行われるもの」であり、「隔離以外によい代替方法がない場合において行われるもの」である。

患者を保護室に常時隔離することは治療・人権面からも問題が多く、たとえ患者が保護室に隔離されたとしても、その原因となった要因の減少によって段階的に開放処遇に移さなければならない。

(二) 本件病院には一六の病棟があり、閉鎖病棟、準開放病棟、開放病棟に分類されるが、準開放病棟と閉鎖病棟との違いは、病棟外への外出が自由にできるかどうかである。病棟内における入院患者の活動には両病棟で違いはない。それぞれの病棟内部の構造、設備等にも違いはない。

さらに、前記(一)の考え方を受けて、本件病院においては、開放的処遇は何らかの形で全病棟で採り入れている。準開放病棟においては、病棟外での自由行動を許可された患者は、出入口前のナースステーションで看護職員のチェックを受けるだけでよい。閉鎖病棟においても、病状の改善した患者は病棟外での自由行動が許可される場合がある。病棟内での患者と治療スタッフとの関わり方や患者相互の対人関係についても、各病棟間で何ら異なった手法はとられていない。

また、本件病院においては、入院患者の個別的処遇についても、開放的処遇を原則としている。外来診察で担当医師が入院治療の必要性を認め、患者からの自由意思によって任意入院となる場合には、原則として開放病棟ないし準開放病棟に入院させ、保護者、扶養義務者等の同意による医療保護入院の場合には、原則として閉鎖病棟ないし準開放病棟に入院させる。病棟では、通常は一般室に入院させ、治療看護を開始するが、入院時に特に精神運動興奮や精神症状による問題行動がある場合、あるいは自傷行為が認められる場合等は、保護室を利用して、患者の看護及び観察を行いながら治療する。しかし、保護室の利用は、限られた空間に患者を隔離して行動を制限し、自尊心を傷つけ、医療行為に対する不信感を生み、治療関係を悪化させるおそれがあり、ある種の患者には拘禁反応といういわば医原性の精神障害を引き起こす可能性があるので、病状回復期に、昼間、時間を区切ってデイルームという開放的環境で観察しつつ治療看護を行う。

このように、閉鎖病棟ないし準開放病棟に入院した患者についても、入院直後の一定期間は、病棟生活に慣らすためや治療スタッフによる病状把握のために、行動範囲を病棟内に制限するものの、次第に病院内外への自由行動の範囲を広げていき、作業療法やレクリエーション・サークル活動等を通じて、社会復帰に向けた治療看護を行うのである。

(三) 乙川を二―一病棟に入院させたのは、入院当夜は保護室に隔離することが必要だったためである。右病棟は、準観察病棟として、閉鎖病棟でかつ観察病棟である一―二病棟の機能を補完する役割を有しており、他の病棟と比べて保護室を多く備えている(六室)ので、入院隔離する病棟としての機能を十分に有している。

本件病院は、乙川を二―一病棟に入院させた直後から保護室に隔離し、乙川の経過観察と治療を行った。そして、昼間は病棟内のデイルームで行動を観察しながら、保護室での隔離時間を縮めていったところ、乙川には幻覚・妄想等の病的体験や行動上の問題も認められず、治療スタッフの指示にも拒絶するようなこともなかった。そこで二月七日に保護室隔離解除を行い、同一三日から病院内での自由行動も許可した。

乙川の入院後の経過は順調だったので、開放病棟への移動と退院に備えて、住居等の環境調整を予定していた。

2  乙川に対する監視及び看護について

(一) 乙川は、平成二年一月二九日深夜、家族同伴で本件病院を緊急受診し、当直医である豊永公司医師(以下「豊永医師」という。)の診察を受けた。豊永医師は、乙川の多弁、誇大念慮、躁状態、関係念慮等の病状を確認し、入院治療の必要性を認めた上、乙川の病状、深夜の緊急入院でもあり他の患者への影響も考慮して、保護室入院が必要と判断した。そして、翌三〇日年前〇時三〇分、男性観察病棟(閉鎖病棟)である一―二病棟が満床であったため、保護室に空床のあった準観察病棟(準開放病棟)である二―一病棟に医療保護入院させ、保護室に入室させた。

同年一月三〇日、病棟主治医である森正宏医師(以下「森医師」という。)が保護室内で乙川を診察した。この際、乙川は、やや多弁傾向があったが、意思疎通は保たれ、思路の乱れはみられなかった。幻聴体験は否定し、精神運動興奮、妄想等の病的体験、感情不穏も認められず、入院後は睡眠もとれていることを確認した。本人も落ちついた状況で、「疲れているから休みたい。」と入院治療を受け入れていた。

森医師は、乙川を非定型精神病と診断し、入院前の隣人とのトラブルについては、乙川の幻覚妄想等の病的体験によるものである可能性は低く、むしろ不安定な気分を基礎とした衝動的爆発的な行為の可能性が高いと判断した。さらに、乙川が入院前の激しい病状からかなり回復しつつあること、入院治療を受け入れており、病棟での治療看護に抵抗することなく従順な態度を示していること等から、二―一病棟における治療の継続が適当であると判断し、かつ、保護室利用は夜間のみとした。

しかし、乙川の病状については、治療スタッフとしても注意を払い、二月七日まで、昼間はデイルームにおいて治療スタッフや他の患者との対人関係の様子を、夜間は保護室隔離下で睡眠状態を、それぞれ観察し続けてきた。その際、乙川は、治療スタッフに従順で、他の患者にも穏やかに対応しており、夜間も不眠の状態にはなく、気分変調も幻覚・妄想・情緒不穏も認められなかった。また、森医師が二月五日に診察したところ、乙川の被害念慮は一時的なもので、入院後は持続していないこと、乙川は「悪いことをした」と反省を示していることが確認された。このような患者を長期隔離し続けることは、患者の治療面からも許されることではないので、二月七日に隔離解除を行ったものである。

隔離解除後も、注意深く行動観察を続けていたが、乙川の病状は順調に推移していた。二月八日の症例検討会では、退院及び社会復帰に向けての近日中の開放病棟への転棟と住居の環境調整の方針を決めた。二月一三日には病院内の自由行動(開放処遇)を許可している。

以後二月二八日当日まで、乙川の病状は改善に向かっており、乙川を保護室に隔離したり、閉鎖病棟に移す必要のあるような病状の悪化は何らなかった。

二月二八日当日は、午前一〇時三〇分から午後三時一〇分まで、主治医の許可を得て、母親同伴で父親の病気見舞いに外出したが、外出前も帰院後も看護者は乙川の穏やかな態度を確認していた。当日準夜勤の上田看護士は、午後四時の勤務交代時に、乙川に声をかけたが、その際、乙川に変わった様子はなかったし、夕食後の服薬も滞りなく、拒絶的傾向はなかった。

乙川の暴力衝動の発現は、心気症状・焦燥感・躁状態・不眠等に引き続いて起こるのが通例であったが、本件事故に先だって右の各症状は全く認められていない。

(三) 乙川が、前後三回の本件病院入院中に暴力を振るったのは、初めて本件病院に入院した際の昭和五六年一〇月一七日に、ラジオの音量を下げるように注意した看護職員に対するもののみである。

一郎は、昭和五二年の初回入院以来、大声で独語したり、治療スタッフや他の患者に怒声を発することが稀ではなかったが、同人のこのような言動の対象は特定されておらず、一郎と乙川との間で喧嘩等の特別な出来事が生じていたこともなかった。一郎の乙川に対する言動についても治療スタッフが格別の関心を引かなかったのもやむを得ない。

(四) 以上からすると、本件病院が本件事故を予見することは不可能であった。

第三  証拠

本件訴訟記録中の書証目録及び証人等目録の記載のとおりであるから、これを引用する。

理由

一  請求原因1の事実は当事者間に争いがなく、同7の事実は成立に争いのない甲第一号証により認められる。

二  請求原因2のうち、(一)の事実は当事者間に争いがなく、(二)の事実は成立に争いのない甲第二号証の二〇、二四、三一の1、2により認められる。なお、被告は、乙川の暴行と一郎の死亡との間の因果関係について争うが、前記甲第二号証の二〇、二四によれば、一郎の死因は乙川の暴行による腹部打撲に基づく膵破裂であると推認することができ、右因果関係の存在は明らかである。

(以下、請求原因2の事実を「本件事故」という。)

三  本件事故に至る経緯

1  本件病院の診療看護体制

成立に争いのない乙第八号証、証人森正宏及び同上田正志の各証言並びに弁論の全趣旨によれば、以下の各事実が認められる。

(一)  本件病院には一六の病棟があり、閉鎖病棟、準開放病棟及び開放病棟の三種類に分けられていた。

閉鎖病棟は、病棟の出入口が施錠されており、入院患者は医師の許可なくして病棟の外に出ることはできない。開放病棟は、病棟の出入口が施錠されておらず、入院患者は原則として昼間は病棟外へ自由に出ることができる。準開放病棟は、原則的に病棟の出入口が施錠されていないが、その構造上、患者は看護詰所(ナースステーション)を通って出入りするようになっているため、開放的処遇をする患者は出入りを自由にし、閉鎖的処遇をする患者が出ようとすると看護士が止めるというように、患者の処遇に応じて対処できるようになっている。

このように、各病棟の違いは、病棟外への出入りの自由度にあるのであって、病棟内での各人の病室間等の往来は、各病棟とも患者が自由になしうるものであって、この点には何ら差異はない。

各病棟の選択に関しては、外来診察で担当医師が入院治療の必要性を認め、患者からの自由意思によって任意入院となる場合には、原則として開放病棟ないし準開放病棟に入院させ、保護者、扶養義務者等の同意による医療保護入院の場合には、原則として閉鎖病棟ないし準開放病棟に入院させる。

病棟では、通常は一般室に入院させ、治療看護を開始するが、入院時に特に精神運動興奮や精神症状による問題行動がある場合、あるいは自傷行為が認められる場合等は、保護室を利用して、患者の看護及び観察を行いながら治療する。しかし、保護室の利用は、限られた空間に患者を隔離して行動を制限し、自尊心を傷つけ、医療行為に対する不信感を生み、治療関係を悪化させるおそれがあり、ある種の患者には拘禁反応を引き起こす可能性があるので、病状回復期には、昼間、時間を区切ってデイルームという開放的環境で観察しつつ治療看議を行う。

さらに、閉鎖病棟ないし準開放病棟に一旦入院した患者についても、入院直後の一定期間は、病棟生活に慣らすためや治療スタッフによる病状把握のために、行動範囲を病棟内に制限するものの、次第に主として昼間、病院内を自由に行動させることから始めて、開放的処遇として、病院内外への自由行動の範囲を広げていき、作業療法やレクリエーション、サークル活動等を通じて、社会復帰に向けた治療看護を行っている。

本件病院では、男性の入院患者は、まず閉鎖病棟である一―二病棟(一病棟の二階)(観察病棟)か、準開放病棟である二―一病棟(二病棟の一階、準観察病棟)に入院させることにしていた。

(二)  本件事故当時、二―一病棟には入院患者は四四名おり、これに対して医師二名、看護職員(看護士、準看護士を含む。)一八名(内男性一三名)が治療看護に当たっていた。

本件事故当時の本件病院における看護職員の勤務態勢は、午前八時から午後四時一五分までの日勤、午後四時から午後一一時一五分までの準夜勤、午後一〇時から翌朝の午前八時一五分までの深夜勤の三交代制になっており、二―一病棟においては、日勤が平均約七名、準夜勤及び深夜勤がそれぞれ二名で構成されていた。

(三)  二―一病棟における準夜勤看護職員の看護内容は、以下のとおりである。

まず午後四時からの勤務に備えて、午後三時四五分から各部屋や各保護室を巡回する。二名一組で、患者を一人ずつ確認観察し、声をかけ、表情等の反応を観察しながら、病状を把握するようにしている。

午後四時に、日勤者と準夜勤者の全員が一堂に会して、申し継ぎを行う。その際、日勤者のチーフが、その日の病棟管理日誌に従い、患者総数、在院患者数、要注意者(他害行為、自殺企図、誤嚥、無断退去等を起こす患者)のほか、他科受診、面会、外出、処置、検査等の患者に関する事項の該当者の名を読み上げ、その内容について説明する。右の患者に関する事項は、二日前の分から報告説明がなされ、また、特に要注意患者については重点的に報告説明がなされる。その後、日勤者のチーフからの申し送りを受け、同時に医師指示簿による医師からの指示を全員で確認する。さらに、準夜勤者はこれらの点をカルテで再確認する。

午後四時三〇分ころから、看護者のうち一名が各部屋及び各保護室の巡回を行い、患者に申し送り事項と比べて大きな変化がないか、特に、異常行動、薬の副作用、不潔行為、身体的変調、寝たばこがないか等に留意して、観察する。他の一名は、夕食後の患者への与薬について、日勤者が準備していた薬箱の患者名と医師指示簿記載の薬名を照合確認する。

午後四時五〇分ころ、看護者は、一名は一般室について、他の一名は保護室について、患者の夕食を配膳する。

午後五時五分ころから、看護者一名は、患者らとともに後片付けと掃除を行いつつ、患者の動態観察を行い、他の一名は病棟を巡回する。

午後五時一〇分ころから、看護者一名は、食後の院内散歩のために病棟を出る患者の確認と世話を行い、出入りの際に病棟の扉の施錠を確認するため、午後五時三〇分の門限まで詰め所に常時待機する。他の一名は、軟膏、湿布、点眼薬等の処置を要する患者に対し、処置室内で処置を行い、その後、門限前に病棟内を巡回して、患者の人員確認を行う。人員確認完了の伝達を受けると、詰め所内の看護者は病棟の扉を閉める。

2  乙川の病状と治療状況等

成立に争いのない甲第二号証の三三、四四、乙第七、第八号証、証人森正宏及び同上田正志の各証言及びこれらにより真正に成立したものと認められる乙第一号証の一ないし四、第二号証並びに弁論の全趣旨によれば、以下の各事実が認められる。

(一)  今回の入院に至るまでの乙川の状況

乙川は、昭和五三年ころに発病し、昭和五三年五月から同年一二月まで沢神経科病院に入院し、昭和五六年一〇月八日に初めて本件病院での診療を受け、右同日から同年一二月二六日まで本件病院に入院し、昭和五九年六月五日から同六〇年一月九日まで再度本件病院に入院し、退院後は約二ないし四週間に一回の間隔でほぼ定期的に、本件病院に外来通院していたが、平成元年一二月ころには、女性と同棲を始め、翌年二月には入籍し、二人で文化住宅に居住し、通常の生活をしていた。

平成二年一月四日ころ、中宮病院の通院患者である友人の某が乙川方を訪れ、一晩中喋っていたことがあった。それをきっかけに、乙川は睡眠障害、気分の不安定が始まり、症状が悪化して軽躁状態、易刺激性状態となり、関係念慮(周囲にあるいろいろな出来事を自分に関係づけて受け取ってしまう状態)が発生していた。そして、実家の父母及び兄の前で刃物をテーブルに突き立てて「皆殺す」と述べるなどしていた。

(二)  今回の入院直前の乙川の状況

平成二年一月二九日ころ、乙川の居住する文化住宅の隣室に、本件病院の通院患者である女性が居住していた。その女性には、幻覚幻聴体験があり、自己の幻聴体験に対して、「殺せ。殺せ。」などと独語していた。

これに反応した乙川は、自分が殺される、殺される前にやってしまおうと考えるに至り、同年一月二九日、自分の家の包丁を持って、隣室に押し掛け、玄関のドアを蹴り破るなどした。しかし、右女性が部屋から逃れ出たため、大事に至らなかった。

乙川は、その後、大阪府港警察署に保護され、同年一月三〇日未明、兄に連れられて本件病院を訪れ、当直医の豊永医師の診察を受けた。その際の乙川は、いらいらした状態でかなり多弁であったが、会話内容はほぼまとまっており、幻覚の兆候はなく、応対としては落ちついていた。豊永医師は、乙川を精神分裂病と診断し、入院するよう勧めたところ、乙川は素直に応じ、そのまま本件病院に通算三度目の入院をすることになった。

前記のとおり、本件病院では、男性患者はまず二―一病棟ないし一―二病棟に入院させることになっていたが、豊永医師は、一―二病棟の保護室が満室であったため、乙川を準開放病棟である二―一病棟に入院させた。また、豊永医師は、乙川に対して、躁状態に効果のある抗躁剤、その他の抗精神病薬を処方した。

(三)  入院直後の乙川の状況

入院当日の平成二年一月三〇日午前一〇時ころ、乙川の主治医となった森医師が、二―一病棟保護室において、乙川を診察した。

その際、乙川は、意識が清明で、言語的な疎通も保たれ、混乱したり、支離滅裂の状態ではなかった。非常に多弁であったが、一晩過ごして、入院時の精神運動興奮状態から改善しているような印象であった。不穏、興奮、拒絶、攻撃的なところはなかった。やや高揚した気分、疲労感、緊張感が認められたが、幻覚、妄想等の病的体験も認められなかった。乙川は、入院直前の問題行動についても、率直に体験を話し、それに関する動揺等はなかった。

森医師は、乙川が入院に耐えられる状態であると判断し、本人も希望していたことから、入院を継続させることにしたが、普通の社会生活もできる乙川が入院直前のような行動に出たのは、幻聴に基づくものではなく、躁状態の不安定な感情、被害関係念慮、気分の高揚をもとにした衝動的爆発的行動であると判断し、非定型精神病と診断し、抗躁剤、抗精神病薬を処方した。

このときの乙川の状態は比較的落ち着いていたが、なお慎重な観察をするため、森医師は、乙川を、昼間は保護室から病棟のデイルームに移し、夜間には再び保護室に隔離するとの方法を採ることを決定した。

(四)  その後、本件事故発生までの乙川の状況

入院後、森医師又は看護職員は乙川の睡眠状態及び昼間の行動を観察したが、睡眠状態については、最初の日に不眠傾向であったほかは、ほぼ安定しており、昼間の行動についても不穏なものや興奮状態を認めなかった。乙川は、病院スタッフに対し従順で、指示には素直に従っていた。

乙川は、平成二年二月四日には倦怠感があり、「脳に血が溜まって具合が悪い」などと訴えていた。

森医師は、二月五日、乙川のその後の処遇を決めるため診察を行った。その際、乙川は、入院直後にあった被害感が続いておらず、入院直前の行動について反省していると認められた。そこで、森医師は、入院前の乙川の状態は、当時の気分の不安定さに基づく一過性の被害念慮であったと判断し、保護室の開扉時間を延長した。さらに、二月七日、病状の経過、問題行動の持続していないことから、保護室に隔離する必要性がないと判断し、乙川を保護室から開放した。

二月八日、本件病院内で症例検討会(ケースカンファレンス)が行われたが、そこでは、乙川については、森医師により、「軽い被害妄想、衝動的爆発性がある。ときに衝動的、爆発的行動をとる。知能は精神遅滞との境界にある。思考も浅い。入院してからの積極的症状はない。通院患者との交流が広く、病棟内での面会は不適当であるため、院内散歩を許可して、外で面会してもらうことにする。徐々に開放病棟に移していく方向で考える。」との報告がなされた。なお、森医師の乙川に対する右の「ときに衝動的、爆発的行動をとる。」との指摘は、乙川の入院前の行動について分析したものであり、二月八日当時乙川がそうした状態にあったことを指摘したものではなかった。右検討会において、乙川については、病状の変化について注意していこうという看護方針が立てられ、病状悪化の兆候として、不眠、いらいら、食欲不振等が現れてくることが指摘され、看護職員においてもその点に注意して乙川を観察していた。

森医師は、二月一三日、乙川に院内自由行動(散歩)を許可した。二月一五日、看護者が乙川に対し声をかけると、挨拶を返し、ちらりと視線を向けた。おだやかな様子で、落ちついた立ち居振る舞い、なごやかな相貌であった。二月一九日以降、嘔吐感等があったが、睡眠状態には格別異常はなく、睡眠薬の処方を要するような状態にはなかった。二月二一日、森医師は、乙川の病院内での行動を考慮して、同人には散歩ないし外泊も十分可能であり、病状回復にプラスになると判断して、乙川が家族同伴で院外に出て、他の病院を受診することを許可した。二月二二日、乙川は頭部のかゆみを訴えたが、本人の希望により、スタッフが丸刈りにし、他院皮膚科の薬を塗布した。二月二三日には、病棟外の散歩に出かけたが、表情は明るかった。二月二六日には、母親が希望するときの一泊程度の外泊が許可された。

その間、数度にわたって、家族と面会しているが、面会後異常な行動がみられることもなかった。

(五)  本件事故発生前後の状況

本件事故当日の平成二年二月二八日、森医師は乙川に対し、入院後二回目の外出許可を出した。乙川は、同日午前一〇時三〇分、母親に付き添われて、病院の外に出、入院していた父親の見舞いに行き、午後三時一〇分病棟に帰ってきた。

当日の準夜勤の看護担当であった上田正志看護士(以下「上田看護士」という。)は、日勤者から、乙川は院外から機嫌よく帰ってきたとの申し送りを受けた。午後三時四五分に病棟内を巡回した際、上田看護士は、乙川が当時利用していた七号室にいるのを確認し、挨拶したところ、乙川は元気な声で挨拶を返した。夕食当時、上田看護士はホールの中央に立って、誤飲や拒薬がないか観察していたが、乙川は、夕食を全部摂取し、薬も飲み、立ち居振る舞い等に変わりはなかった。

本件事故は、一郎の使っていた五号室で起こった。上田看護士が、湿布等の処置を要する患者に対し、処置室内で処置を行う準備を終わり、午後五時二〇分ころ、詰め所の方に帰ろうとしていたところ、五号室で叫び声がしたので急ぎ駆けつけると、乙川は、既にヘアブラシで一郎の顔を突いたり、一郎の腹部を踏みつけるなどした後であった。そして、乙川がさらにヘアブラシを持った手で一郎に殴りかかろうとしていたので、上田看護士は、ヘアブラシを取り上げて、乙川を制止して一郎から遠ざけ、詰め所に誘導し、詰め所にいたもう一人の看護職員の田中某に乙川を預け、自力で歩行してきていた一郎を処置室に誘導し、診察台に寝かせて、出血部の処置を行い、体温、血圧および脈拍等を測り、疼痛の有無を尋ねた。

上田看護士からの電話連絡を受けて、当日の当直医であった豊永医師が駆けつけた。そのとき乙川はかなりの精神運動興奮状態にあった。乙川には幻覚はなかったが、暴行の原因について、「以前から部屋へ行くと、出て行けと言われていた。相手がこわく、自分がやられるのではないかと思った。自分の部屋に帰ったが、心の中にたまったものが収まらないので、再び部屋に行ってやった。殺してやろうと思った。」などと述べ、被害妄想ないし被害念慮がある一方、罪悪感は認められなかった。

三月二日、乙川は、閉鎖病棟である一―二病棟内の保護室に隔離された。三月三日、豊永医師が診察したところ、乙川は落ちついており、隔離されている保護室から早く出たいと望み、いつ出してもらえるのかという点について、専ら関心が向いていた。その後、乙川の症状には基本的に変化はなく、衝動行為やトラブルを起こしたり、気分的に焦燥感の強い日があると思えば、身体症状を強く訴える時期があったり、機嫌よく過ごしている時期があったりして、その都度状態は変わっていた。しかし、豊永医師も、乙川の院内の散歩、院外への家族同伴の外出、外泊も認めていた。

(六)  一郎と乙川の関係

森医師は、乙川からも、一郎からも、他の患者からも両者の間で特別な接触や関係があった旨の話は全く聞いておらず、看護職員からも両者の特別な関係についての報告はなかった。上田看護士も、両者の接触について気がついたことはなかったし、他の看護職員からその旨聞いたこともなかった。

乙川は、本件事故のあった五号室で一郎と同室であった患者の伊勢某(看護日誌で「落ちつきなく多動多弁で誇大的な言動が多い」と指摘されている。)との接触は多く、そのこと自体は看護職員も把握していた。

四  被告の責任

1(一) 精神病院に入院中の精神障害者は、その精神症状等から自傷他害の危険性を否定できないから、病院、医師、看護職員としては、精神障害者が自傷他害を伴う事故を起こさないよう、それぞれの立場において患者の動静に注意し、事故が発生しないよう配慮すべき注意義務があるものと解される。

(二) 他方、精神障害者に対する治療は、その究極的目的が患者の社会復帰を促進することにあることからすれば、完全な拘禁及び監視の下で行うだけでは足りず、入院患者をなるべく社会と同じ環境において治療し、病棟の開放化、作業療法の利用等の開放的治療が試みられるべきであることは、一般に認められるところである。

開放的療法は、精神障害者が自傷他害に及ぶ機会を増加させうる一面も有するが、前記の開放治療の理念からすれば、どのような病状の段階でどの程度の開放的治療を行うかの決定は、まさに精神障害者治療の核心に属することであり、医師が、その当時の医療水準上要求される医学的知識に基づき、かつ、当該患者の病状の変化の的確な観察に即して、治療効果と自傷他害の危険とを考量しつつ判断すべきである。また、処遇が個々の患者の精神状態の多様性に応じたものでなければならず、かつ、病状の診断が検査データ等の客観的資料により得られるものではなく、医師による患者の観察と対話内容に依拠する部分が大きいものであるだけに、右の決定に当たっては医師の裁量的判断に委ねられる範囲が広いものといわざるを得ない。したがって、精神病の診断、治療方法の選択については、病状と治療効果、その冒すべき危険性との調和と、その治療に当たり医師として通常払うべき注意とを勘案して、右医療措置が医師の裁量に委ねられた範囲を逸脱した場合に限り、医師の過失が認められるものと解するのが相当である。

(三) もちろん。医師が治療方法として開放的療法を選択したからといって、それによって医師らに患者による暴力行為の発生を未然に防止すべき義務がなくなるわけではない。治療行為として開放的処遇を採用する場合には、医師及び看護職員には、各患者の症状及び動静を的確に把握し、自傷他害の恐れの予見できる患者に対しては、他の患者と比較して重点的に観察看護し、場合によっては一時隔離保護する等の何らかの方策を採るべき義務があるということができる。

2(一)  原告は、本件病院には、乙川を閉鎖病棟に入院させるべき義務があったと主張する。

しかし、前記三1(一)の認定によれば、本件病院における閉鎖病棟、準開放病棟及び開放病棟の三種類の病棟の違いは、病棟外への出入りの自由度にあるのであって、病棟内において、閉扉された保護室を除く各人の病室間等を往来することは、各病棟とも(保護室に拘束されている者以外の)患者が自由になしうるのであって、この点に何ら差異はない。

そうすると、そもそも、入院時以降本件事故に至るまでの間、乙川を入院させる病棟として、準開放病棟ではなく閉鎖病棟を仮に選択していたとしても、病棟内の一般室において、同じ病棟に入院していた患者間で生じた本件事故を回避することができたとは認められないものということができる。

したがって、準開放病棟に乙川を入院させたことと本件事故との間には因果関係はない(なお、さらに、進んで、乙川を入院させる病棟の選択について、本件病院医師の裁量権の逸脱があったかどうかについて検討するに、前記認定のとおり、本件病院においては、閉鎖病棟においても、入院直後の一定期間は行動範囲を病棟内に制限するものの、次第に開放的処遇として社会復帰に向けた治療看護を行うのであり、保護室の利用は、入院時に特に精神運動興奮や精神症状による問題行動がある場合、あるいは自傷行為が認められる場合等に限られ、しかも、病状回復期には、昼間、時間を区切って、保護室外のデイルームという開放的環境で観察しつつ治療看護を行うようにしているのであり、このような保護室の制限的な利用は、保護室の限られた空間に患者を隔離して行動を制限することが、患者の自尊心を傷つけ、医療行為に対する不信感を生み、治療関係を悪化させるおそれがあり、ある種の患者には拘禁反応を引き起こす可能性があることを懸念したものであり、前記四1(二)のとおり精神病院において開放的処遇が重要である点に鑑みれば、本件病院における右の扱いは相当なものということができる。さらに言うならば、乙川に対し選択された二―一病棟においても、保護室が備えられ、隔離が必要な患者が生じた場合にはこれに対処することが可能となっているのである。したがって、乙川の診察ないし治療を担当した豊永医師及び森医師が、乙川を入院させる病棟として、準開放病棟である二―一病棟を選択したことについて、精神病患者治療に関する医師としての裁量権の逸脱があったということはできない。)。

(二)  以上より、結局、乙川を準開放病棟に入院させたことと本件事故との間には因果関係はないし、またその点につき、本件病院医師に過失が存すると評価することもできず、この点についての原告の主張は理由がない。

3(一)  更に、原告は、本件病院において、乙川の監視看護を十分に行い、同人の病状、日常の言動、他の入院患者との人間関係に注意を払っておれば、乙川が本件事故のごとき衝動的行動に出る危険性を予見して、本件事故を未然に防止し得た、とも主張する。

そこで本件病院の医師又は看護職員において、乙川が本件事故におけるがごとき衝動的行為に出ることが予見可能であったか否かについて検討するに、乙川の病状及び治療状況については前記三2の認定のとおりであり、右の認定事実からすれば、乙川は、今回の入院後、当初の被害念慮等の症状が改善し本件事故の直前に至るまで病状に落ちつきを見せており、躁状態、不眠状態にもなく、他の患者との何らかの衝突も見られなかったと推認することができる。平成二年二月四日ころの倦怠感もその後は持続していないのであって、右推認を覆すものではない。他方、乙川の衝動的行為は、躁状態、不眠、気分の不安定等の前駆状態を伴って出てくるとした森医師の診断が不相当であるとは本件全証拠をもってしても認められない。そうすると、乙川が、そのような前駆状態が認められないにもかかわらず、本件事故におけるがごとき衝動的行為に出ることは、本件病棟における乙川の動静からは予見不可能であったといわざるを得ない。

(二) なお、前記甲第二号証の三三及び乙第一号証の一、二並びに成立に争いのない甲第二号証の三六ないし四一及び同四三によれば、乙川が、本件事故以前に、一郎と同じ五号室にいた患者の星原某及び伊勢某と一緒に音楽テープを聴こうとして同室に行ったところ、一郎から部屋から出ていくように言われたことが数回あったこと、これに対して、森医師をはじめ本件病院の医師及び看護職員らは右事実を了知していなかったことの各事実を認めることができる。しかし、本件病院病棟内における看護職員の巡回、患者の観察に関して、その回数や方法上問題があったとは本件全証拠をもってしても窺い得ないし、かえって、前記三1(三)の認定によれば、本件病院の病棟内における巡回、観察、注意事項の引継等は、精神病院内の看護体制として遺漏がなかったものと認められる。本件病院における看護職員数が実際上限られている点からして、病室内の患者の間で交わされている会話内容をすみずみまで完全に把握することが至難の業であることは容易に推認できるところであり、しかも、乙川は、一郎から部屋を出て行くように言われた経験があったにもかかわらず、病状に落ちつきを見せており、一郎との間で特に衝突を起こすようなこともなく、かえって数回にわたり五号室を訪れているという事実も認められることからすれば、本件病院医師らが前記事実を本件事故の当時まで把握していなかったことをもって、同人らの過失と評価することはできないというべきである。

(三)  また、乙川の病名につき、森医師は「非定型精神病」と診断し、豊永医師は「衝動的人格障害」と診断しているが、前記甲第二号証の四四によれば、豊永医師においても、乙川の病状について、非定型精神病でもよく、質的に違わないとし、同人のそのときどきにおける衝動行為は一過性のものであること、衝動行為にすぐ走ってしまう衝動的人格障害は恒常的持続的なものであるが、何らかの刺激的な出来事があったとき顕在化すること、を認めているのであって、両医師の診断の違いは前記(一)の認定を覆すに足るものではない。

(四)  以上からすれば、乙川の入院時の状況を考慮してもなお、本件事故当時、本件病院の医師及び看護職員らにおいて、乙川が一郎に対する暴力行為を起こすことを予見することは不可能であったといわざるを得ない。

(五)  したがって、本件病院の医師、看護職員らに注意義務違反があったということはできず、この点でも、原告の主張は理由がない。

五  結論

以上によれば、本訴請求は、その余の点について判断するまでもなく、いずれも理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担について民訴法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官中路義彦 裁判官瀨戸口壮夫 裁判官横山泰造)

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